妙安寺について

由緒

当山上岡馬頭観音は、今から約800年前の鎌倉時代、瑞慶和尚によって福聚庵として当地に創建されたのが、その起こりとされております。
瑞慶和尚は、源義経公が京都鞍馬山で修行した折、一緒に文を学び道を修めた人であり、当山本尊は瑞慶和尚の作とされております。

また、本尊の中に黄金の尊像を納めていると伝わります。この尊像は、古くは蝦夷討伐の折に坂上田村麻呂、平将門追討の折に平貞盛公、その後、源頼家公・義家公、いずれもこの尊像を奉じて出陣し、御役目を果たしました。その後、藤原秀衡公から源義経公に渡されました。

義経公もこの尊像を奉じて見事、木曽義仲を討ち、入洛しましたが、その時に「尊像を手元に置くのは畏れ多い」と修行仲間であった瑞慶和尚に授けました。

ところが義経公は頼朝公の不信を買い、鎌倉を追われ陸奥に落ち延びますが、そのことを聞いた瑞慶和尚は、尊像をお返しするために義経公を追いました。しかし追いつけないことを悟ったある晩、観音様が夢枕に立ち、「この地に留まり尊像を安置するよう」と告げられました。

瑞慶和尚は、当時この辺りを治めていた源範頼公の力を借りて福聚庵を結び、預かった尊像を自身で作成した馬頭観音の本尊に納め、庵に祀ったと伝わります。

その後は軍馬の守り観音、農家の馬の守り観音として、関東はもとより東北、甲信越に至るまで信仰を集めました。

また、400年前に上岡馬頭観音・本堂脇の諏訪神社を管理するかたちで「諏訪山 妙安寺」が建立されました。明治期の神仏分離により諏訪神社が離れ、「慈雲山 妙安寺」として今に名を残します。

毎年2月19日は「上岡観音例大祭」として、現在に至るまで沢山の参拝者が集まり、競馬関係者、牛馬牧場、運送会社、信仰してくださる沢山の信徒様に支えられ、現在に至るまで大きな盛り上がりを見せています。

慈雲山 妙安寺 上岡馬頭観音
二十二世 櫻井説由

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